引きこもり大学生、8月を振り返る

特段書くことがないまま10日以上が過ぎてしまった。

 

まあ当たり前かもしれない。

この10日間基本的にやったことは居候している友人の部屋と教習所の往復だった。

 

とはいえ、小さいことに注目すると、2年間引きこもっていた俺にとって10日間というのは自分のあり方が変化するに充分な時間だった。こどもが10日間のサマーキャンプから帰ってきてどうも少し頼もしくなったなんていうのはありがちな話だけど、今の自分には東京でただ生活することは同じくらいのインパクトがあった。

たった20日前の自分をまるで過去のことのように回想するのはおかしいが、とにかく今月は自分の中では色々な変化があった。

 

とにかく一番大きいのは、大学すぐそばにアパートの借りる友人の部屋の合鍵をもらったことだ。とりあえず今回はこれについて書いてみる。

長い間たった一人で現実と妄想の間を漂泊していた俺を現実の側に急速に近づけてくれた。大学でできた新しい仲間だが、奴らとの付き合いももう三年目になると考えると、とても信じられない。一月前の自分を遠く振り返ってみたり、2年前の出会いを昨日のことみたいに感じたり、この2年の俺の時間感覚はすっかりおかしくなっているみたいだ。離人症の症状ですっかり現実感のないまま夢遊病者みたいに過ごしていたのだから戻ってきただけでも幸運だと思うし、奇跡みたいなことだ。更に少し脱線することになるが、この友人はとても変わった奴ているけど少ない友人関係の中にこんな俺をある程度信頼してくれる奴らがいたのは幸せなことだ。親には何度か一人暮らしの話はしたが、もともと平凡な上にあれだけ疲弊した(その疲弊にトドメをさしたのは僕かもしれないが)僕の親に何か決断できるはずもなく、なあなあにされていた環境の変化が、完全に予期せぬ形で訪れた。親についても自分として考えがまとまって、もう少ししっかりしたら記事を書こうと思うが、今は保留しておく。

 

大学近くのこの部屋にしばらく泊まれることのメリットは計り知れない。

まずどこに行くにも移動が楽である。僕の地元は山手まで電車で30分かかる低級住宅の集まる住宅地で、症状が出ていた時大勢の人と一緒に鉄の箱に詰めれれてじっと黙っていなければならないのは想像よりずっと気力のいることだった。1時間半かけてキャンパスに到着してもその頃にはもう精神が摩耗していてとても授業どころではない。ターミナル駅での乗り換えをしなければならないことも精神を摩耗する要因で、脳の疲労から雑踏の中で自然と人を避けながら歩くことができなくなっていた自分には、乗り換えの5分間は常に気持ちを緊張させている必要があり、その後も電車に乗らねばならず、負担が大き過ぎた。個人的には家がキャンパスから近いだけでも今回の症状はずっと早期に回復するか、これほどひどくなることもなかったのでは?と考えている。その点、中心から外れてはいるが山手線内側、江戸時代から本来”山ノ手”と称されていた地域( 山の手 - Wikipedia )に属するこの部屋は、住環境自体はとても良いとはいえないが、江戸城を中心とした東京市街地の一部に属する場所で、どこに行くにもひとつながりでいけるので心理的に本当に楽になった。

上のものに近いのだが、離人症の症状が出て以来2年間引きこもり生活を続けていたこともあり、少し出かけるだけで相当疲弊するようになってしまったのだ。脳が効率的に活動できず、一旦疲弊してしまうともう一度回復するまでほとんど正常な判断ができない。なんとか休もうとしても、疲弊した状況ではまともな休憩場所が見つからずに、喉も地下鉄を乗り降りしながら街を放浪したことがある。部屋を使わせてもらってからは、出先の近場に安心して休める場所ができ、疲れた時に涼みながら何か食べたり仮眠をとったり、シャワーを浴びたり。たとえ泊まらせてもらえずとも、そういう場所があるのは本当に助かる。実際動き始めてから、頭が疲弊してパニックに陥りそうになった時に部屋に駆け込むようにして休んだことも一度じゃなかった。

それにやっぱり環境を変えると日常生きているだけでも入ってくるインプットの内容が完全に変わることも大きい。とりわけこの部屋は大学のキャンパスの向かいに位置しているので通りを歩く人や買い物に出かけて出会う人には大学関係者と思しき人や同年代の学生が多い。ふと時間ができた時に気晴らしに出かける場所も豊富にある(今の所ただの選択肢としてだあら、これから出かけて行きたいなあ)。それに友人の部屋にすんセイルわけだから、その友人を始め少なくはあるが他人とのニュートラルな接点を持つ機会がもてる。部屋にいるだけでも自分の読まないような種類の本に囲まれ、新鮮な刺激を受けることができる。

とりあえずいまはこうして周りの人の助けに存分に甘えながら、気力の回復を待っているところだ。割合満足に生活を送っている、ここ何日かは生活に幸せ感じる余裕も生まれてきた。もう少し、もう少し時間はかかりそう、すぐに周りの人たちに何かしてあげられるようになれば、なりたいなあ、、そうおもうことも少しづつふえてきた。まだ夏の暑さは続いているとはいえ、空気は徐々に夏の終わりを意識させる冷ややかさや穏やかさをうちがわにもっているように感じられる。気温は高くとも高くて薄い雲が窓からみえる、季節の移ろいや流れる雲を見ていると自然視線は遠くに向かい、もやもやとした不安より暖かい将来を、、ということでエントリーを終わる。また書くことが溜まって時間ができたら記事を書こうかとおもう、ではまた